『金子兜太の俳句入門』金子兜太著、実業之日本社。
万葉集の中の歌の、全体の三分の一が「こころ」という言葉を使っているとういうのです。その三分の一(全体から見れば九分の一)が心という字を使っています。次にその全体のほぼ三分の一(九分の一)が情という字を使って「こころ」と読ませている。さらに残りの三分の一は万葉仮名でこころと書いているのだそうです。
万葉学者の説によれば、心という字を使った時には自分の中に閉じていく状態を歌にしている。例えば自分は彼女が好きだ、けれどもうまく自分で彼女にいえないと言った時に、その鬱々たるこころを歌にする時は、「心」という字を使っている。また、相聞の場合、相手に向かって自分はあなたが好きです、私のこころはあなたに向かっていますという場合は、「情」という字を書く。外に向かって開いていく時の心の状態は「情」を書き、内に閉じる時のこころの状態は「心」と書く。その書き分けをしている。
上記の文章は、俳句雑誌「青海波」創刊五周年記念講演として、同誌1997年七月号の掲載されたものです。
この講演で金子兜太氏が述べているのは、芭蕉と一茶の俳句への想いと作句姿勢を比べています。
結論めいた事から言えば、芭蕉の場合は「ふたりごころ」を求めに求めて、こういうもんだ分かるんだけど、なかなか自分の俳諧に実現できないで死んだ。それが一茶の場合は、暮らしのためだ、生きていくためだとエゴを突っ張っていった男である。しかし、そういう自分は「荒凡夫のおのれ」であるという自覚をもっていたから、俳句そのものに「ふたりごころ」が自ずと身についていたと書いています。
「ふたりごころ」、「ひとりごころ」という視点は、以前書いた自己表出と指示表出、或いはモノローグとダイアローグという関係性と似た構図のように思います。
2022年7月の話からすれば、安倍元首相を銃弾で撃った男性の話が話題になっています。
男性の母親は幼少期から宗教に入りびたりになることで、父親である夫が自殺し、小児がんを患った長男も自死をしたという経験を持っているが故に、誰にもこのことを話せずに成長することで、教団への憎しみだけが生きる糧にもなっていったという事実を我々は見ます。
また、本人も自衛隊入隊後に自殺未遂を起こしたりしています。
そういう事例を考えると、人間の心には、内に向かうベクトルと外へと向かうベクトルがどこかに同時に用意されていないといつかは破たんを来すことがあるのではないかとさえ思うのです。
俳句のことを読みながら、どうもそれだけに留まらないこころの問題を考えてしまいました。
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